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「旅に行きたいー!×100」という気持ちを(一時的に)解消する方法
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二段ベッドが二つと、シングルベッドが四つ入った八人部屋の一角で横になり、ひとり読書をしている時だった。どこからともなく、ピアノの音色が聞こえてきた。
開いた窓の外にはタスマニアの爽快な青空が広がっており、そこから入る快適な風が、開けっぱなしにした部屋の扉を抜けて静かな廊下へと抜けていた。その風が向かう先から、心地よい曲がわたしのいるところへと届いている。おそらく、この宿のリビングにあるピアノの旋律だろう。しかし、誰が弾いているのだろうか——と不思議に思った。
夕刻には、農作業の季節労働を目当てに集まったドイツ、フランス、香港、台湾、韓国、日本といった国々からワーキングホリデーで来たひとたちで賑やかになる宿も、日が出る前からそれぞれリンゴの収穫などへ出かけており、日中は人気がなかった。英国風の住居を思わせる宿の、どこか軋む音が大きく聞こえるほどである。
わたしも本来であればバッタの大軍が襲来したと言わんばかりに根こそぎリンゴをもいで、カンガルーバッグ(収穫したものを入れるバッグをリュックの要領で胸側に構えるので、ポケットを持つカンガルーのようになる)へ放り込み、次から次へと木を裸にしている(歩合性のため)ところだが、この日は勝手に休息日と決めてのんびりとしていたため、宿に残っていたのであった。ほかにもさぼっている——もとい、戦士のように傷ついた身体を休めている人がいるのかと思いながら、本へと意識を戻した。外から葉がすり合う音と小鳥の鳴き声が聞こえる。そして流れてくる名前は知らなくとも聴いたことのある癒しの名曲と、手元の活字が旋律を合わせるように織りなった。自然と格別な時間が流れ始める。気分が高揚し、物語がより情緒を強めるかのようだった。うまいコーヒーがあれば、言うことがない状況だ。
一曲が終わると、また次の曲が始まる。頁をめくる音までが、どこか劇的に聞こえる。
ひと段落読み終えたところで、身体をおこし、軋む廊下を進んでリビングへと步を進めた。また違う曲が弾かれている。それが、年季の入った宿に広がっていく。
40人ほどが集まって宴を開いても余裕がありそうなリビングの端に黒いピアノがあった。この宿に逗留して一ヶ月半が過ぎようとしていたが、これの音色を耳にするのは初めてだった。
リビングに入ると、顔見知りの様々な国の面子が何人もいた。ピアノを囲むようにして、背もたれに組んだ腕を乗せて椅子にまたがって座っていたり、テーブルに腰掛けたりしながら耳を傾けている。こんなにも仕事をさぼっている——もとい、安息の時間を過ごしている戦士がいたのかと驚きつつ、そちらへ近づいた。皆、わたしのように曲に魅せられて部屋から出てきたのかもしれない。
曲を弾いていたのは、若いドイツ人の女性だった。わたしはその顔を見て、驚いた。
宿から農園までは車で20〜30分の距離があり、送迎がないと通うことができなかった。足は自分で見つけなければならず、車を持っている人へ我先にと交渉を迫るため、乗り遅れたわたしは、当初、席に余裕がある車の持ち主を見つけられず苦労する羽目になった。ようやく見つけたひとも、一週間ほどでバイトを辞めてしまい振り出しに戻る始末だった。さあどうしようかと頭を抱えていたとき、どういう流れだったか覚えていないが、快くわたしを同乗させてくれたのが、このときピアノを弾いていたドイツ人の彼女だった。
彼女は、友人のドイツ人と女性ふたりで旅をしていた。わたしが乗ることで、ガソリン代を折半できる人が増えるため、かえってありがとうと嬉しそうに笑っていた。そのあと数週間、彼女たちが再度旅へ出ることを決めるまで、お世話になっていた気がする。
農作業のバイトのため、髪をまとめている姿しか目にしていなかったが、そのときは、肩まである綺麗な髪をおろしており、流れるような指遣いで、鍵盤を優雅に弾いていた。そんな特技があるとはまるで知らなかった。
曲を終えて満足したのか、こちらの面子へ笑みを見せ、冗談ぽく肩を竦ませた。そんな彼女に、我々は盛大な拍手を送った。彼女は照れたような笑顔で、その歓声に応えていた。
癒された我々は、やがてそれぞれの部屋へと戻っていった。広いリビングに残されたピアノは、次の奏者を待つように、窓からの光を浴びながら、また黙していた。
あんなにお世話になったのに、わたしは彼女の名前を思い出せずにいる。しかし、彼女が弾いていた音色とあの時間は、目を瞑ると鮮明な映像として何度でも再生することができる。あのひと時は最高だった。
ピアノに限らずだが、楽器を弾ける人が羨ましいなと思う。このタスマニアの出来事だけではなく、海外を旅する中で、幾度となく、音楽が国や人種を超えてひとつのまとまり、「仲間」を形成する時間を経験した。言葉など関係なく、音楽が、ひとびとを笑顔にし楽しませていた。
タイでツアーに参加して、イングランド、ドイツ、スイス、カナダ、オーストラリアなどの人たちと夜を共にした際、誰かがギターでひいたビートルズの歌を一緒に歌ったり(わたしは英語が分からないから鼻歌だったが)、ベトナムのレストランで生演奏している人たちに、鼻歌だけで曲を要望し、「別れの曲」を演奏してもらったり、宿泊していたモロッコの砂漠の宿に、遊びにきた近所のモロッコ人一行が、なぜかわたしに太鼓の叩き方を一所懸命に文字通り叩き込んできたことがあったりと、忘れられない思い出のそばにいつも音楽があるような気がする。言葉は通じなくとも、「音」を「楽」しむことは万国共通なのだろう。
NHKに、「空港ピアノ」「駅ピアノ」「街角ピアノ」という番組がある。世界中の様々な場所にある、誰でも弾いていいピアノに定点カメラを設置して、そこを訪れる人が奏でる曲を放送する内容である(地上波とBSで放送中)。
これがひじょうに面白い。
面白さのひとつは、どういう理由でそこで弾いているかや、どのような職業なのか、どのような人生を送ってきたのかなど、そのひとたちの生涯の一編を三行から五行ほどの短さで紹介するところで、一人のひとが曲を弾き終わる頃には、一冊の短編小説を読んだかのような満足感を得られるところにある。また、その土地の名所を簡単に紹介する時間もあり、旅番組ではないのに、旅に行った気にさせられるのも魅力のひとつだ。
旅行に不自由な昨今、旅に行きたい気持ちを多少は解消できる術として、わたしはこれらの番組を録画して観ている。
大抵の場合、誰かがピアノを弾いていると通りがかりの人が足を止めたり、輪を作ったり、曲が終われば拍手が響いたり、弾いていたひとに、「よかったよ」と声をかける人がいたり、楽しそうな空気が伝わってくる。一つになる人たちを目にするたび、音楽は偉大だなと感嘆してしまう。ソーシャルディスタンスがあっても、周囲にいる人たちを充分に楽しませる力がそこにはある。
はたして、そんなすてきな時を生み出すことができるストリートピアノが十勝にもあるだろうかとGoogleで検索したところ、帯広市にある十勝プラザと岡書(ドトールコーヒーの店内)の二箇所で自由に弾けるピアノがあることがわかった。それぞれ利用するにあたっての注意があるそうだが、それを守れば基本的に自由に弾けるらしい。
不要不急の外出自粛がとけ、少し落ち着いたら、岡書で好きな本を買って、ドトールコーヒーを飲みながら誰かが弾いてくれるのを待つのも悪くないかもしれない。海外で体験した豊穣な時間を、地元で味わえるなんて最高だ。
タスマニアで過ごした優雅な時間を感じに行こう——その日のことを思いつつ、今日もわたしは、録画していた「空港・駅・街角ピアノ」を再生した。