俺の好きな栗むし羊羹は売っているだろうか——。
1歳2ヶ月の息子が乗るベビーカーを押しながら、甘い香りの漂う六花亭の店内をわたしは彷徨っていた。きれいに陳列された商品にくまなく目を通す。だが、どこにも見当たらない。どうやらまだ販売していないらしい。時期がまだ早いのか、それとももう作っていないのか。最後に食べたのはもういつだか思い出せない。
仕方がない。他の商品にしよう。はたして、シュークリームを買おうか、シーフォームケーキにしようか、そこはやっぱりサクサクパイにしようか、あんみつも捨てがたい、おっと、おはぎはもう完売か、じゃあ安くてうまいショートケーキにしようか、プリンも食べたい、季節限定のケーキもおいしそうだ、いっそのこと全部にしようか——だが、妻が許してくれるわけがない、厳選に厳選を重ねて、せめて三つくらいに絞らないとだめだ。しかし、こんなに種類があるのに絞れるだろうか。こっそり買おうか。全部。怒られたら、「なんか間違った」と釈明すればいいのだ。そうだ、そうしよう——と巧妙な言い訳を企てながら迷宮を歩くように行ったり来たりしていると、カウンターの向こうにいた若い定員さんの声が耳に入った。
静かな店内なのでよく聞こえたのだろう。わたしがたまたまそのとき、近くにいたのもある。電話が鳴り、壁に設置された受話器を手にした彼女は、二、三言葉を交わし、「一歳くらいのですか?」と問い返していた。なぜだかそこだけ、よけいにはっきりと聞こえた。
受話器を壁に戻した彼女は、周囲を確認しながら、大きな窓から明るい光の入る喫茶室のほうへと向かった。わたしの目は自然と彼女を追っていた。
数組の家族やおばさま方が笑みを浮かべながら飲食を楽しんでいる。それらの邪魔にならないようにしながら、彼女は何かを探していた。一歳くらいの、なんだろう。一歳くらいの子がいる家族連れだろうか。だとしたら、わたしたちがそうだ。しかし彼女は、最初から喫茶室へと歩を進めていた。
ふと、電話の呼び出しで誰かを探しているのかなと思いつつ、昭和でもあるまいし、いまどきそんな手段を思いつく人も少ないかとひとり苦笑した。喫茶室内の隅から隅まで確認し終えた彼女は、次に販売コーナを歩き出した。目線は下、床の端から端まで注意深く見ている。
もしかして——と思ったわたしは、ベビーカーを押しながら彼女に近づいた。「すみません」と声をかける。床から目をあげた彼女は、不思議そうに、わたしを見た。
話は15分前に遡る。
お店へ向かう道中のことだ。すこし冷たい風が吹いていたので、ポストのそばに立ち止まり、妻が息子に上着を着せていた。わたしはそのとき、六花亭の栗むし羊羹がいかにおいしいか妻に熱弁していた。
「栗がごろんと入っているんじゃなくてね、なんていうのかな、マッシュされているんでもないんだけど、棒状になっていて、それを羊羹がうすく包んでいてさ、甘味が絶妙で、もうね、絶品なのよ」
わたしが熱く語るのに、妻が、「へー」と興味なさそうに反応する。これはもう、買って食べさせるしかない。
そう思っていると、後ろから突然、「すみません」と声をかけられた。振り向くと、二十代前半の女性が走ってきたかの様子でわたしたちのもとへやって来た。「これ、サンダル……」と、右手に持った茶色の小さなそれを差し出す。
「ああ、違うんです」とわたしは言った。「それ、わたしたちのじゃないんです」
さらに遡ること3分ほど前、そこへ来る途中、歩道にそのサンダルが落ちているのを目撃したのだ。妻もわたしも、「あー」「落としちゃったんだねー」と、自分たちも経験のあるそれを見送った。持ち主の家族が気がついて探しに来ることを願いながら。
そのサンダルを、彼女が手にしていた。落ちている赤ちゃん用のサンダルと、遠くにベビーカーを押すわたしたちを見て、そうだと思い、走って持ってきてくれたのだろう。なんて親切なひとだ。申し訳なく思いながら、わたしは、「すみません。でもありがとうございます」と彼女に伝えた。
彼女は、「あ、そうですか」と、建設中のドラッグストアを囲う塀のそばへ、そのサンダルをそっと置いた。すこし、消沈した様子だった——。
「もしかして、サンダルですか?」
わたしが店員さんに訊くと、彼女は驚いたように、「そうです」と答えた。
「このくらいの?」と、わたしが手で、おいなりさんより少し大きめのサイズを示す。彼女は、「そうです。ご存知ですか?」と訊ねてきた。
「来る途中に見たんです」
「茶色のですか?」
「そう、ベージュとか、そんな感じだったと思います」
「(お店の)駐車場ですか?」
「いえ、ここから5丁くらい離れているんじゃないかな」
わたしは事情と詳細を説明した。親切なおねえさんが持ってきてくれたこと、おおよその住所、そこは、ドラッグストアを建設中の場所で、ポストが横にあること、塀のそばに置いてあること。
店員さんはメモを取りながら、「ありがとうございます!」と喜ばしそうに店の奥へと向かった。持ち主に連絡をとるのだろう。それを見守りながら、こんな偶然があるのかとわたしは驚きを隠せなかった。
お世話になっている人へのお菓子を選んでいた妻が近づいてきて、「どうしたの?」とわたしに訊いた。仔細を話すと、「とってこようか?」とわたしに提案する。
そうだな、と思い店員さんに声をかけた。だが、持ち主が自分たちで取りに行くから大丈夫と仰っているとのことだった。ひとまず安心して、わたしは自分が食べたい季節限定のケーキを購入し、店を後にした。「またお越しください!」と明るい、はっきりとした声が、わたしたちを見送ってくれた。
奇跡というには些細なことかもしれない。しかし、さまざまな偶然が重なって起こったこの出来事に、わたしは興奮を抑えられなかった。
正直なところ、わたしも妻も、落ちていたサンダルを最初に見た場所を明確に思い出すことができなかった。だが、親切なおねえさんが持ってきてくれたおかげで、その場所を正確に特定することができた。
たまたまあの道を通り、たまたまあの時間に店に行き、たまたま店員さんの声が聞こえるところにわたしがいて、たまたま場所をはっきり覚えていた。偶然の積み重ね。奇跡と言ったら、言い過ぎだろうか。
翌朝、ランニングの途中で様子を見に行くと、小さなサンダルはそこからなくなっていた。持ち主の元に戻ったのだろう。よかったよかったと、わたしはひとりごちた。
どうかこの話が、あの親切なおねえさんに届きますように。この奇跡の立役者は、あのこなのだから。
「持ち主が見つかりましたよ!」
と、いつかあのこに、伝わればいいなと思う。
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