無論、実際には段階を経て開花しているに違いない。 だが、感覚的には、つい先日まで首も座っていなかった赤ちゃんが、ようやく寝返りをうったかと思っていたのに、目を離した隙に、肉の弾丸と化したウサイン・ボルトのように全力疾走をしているような感じがする。 いきなり筋骨隆々な満開になっているのだ。
これは、この春にわたしが体感したことである。 外出自粛による定点観測にも似た行動範囲の狭さが、いままで見落としていた自然の摂理を気づかせたのだ。
桜の開花について、2月1日以降の最高気温を足した累計が600度を超えた日に花が咲くという「600度の法則」というものがある(そのほかにも、平均気温を足していく400度の法則というのもあります)。 近所の遊歩道に桜の木が二本、南北に3メートルほど離れて並んでいるのだが、不思議なことに例年、北側にある片方だけが早くに満開を迎えるのである。 そのとき、南側の木はまだ花がまばらなことが多い。
遊歩道の南側に住宅が並んでいるため、きっと、南側の木は建物の影に入ってしまい、600度に達するのが遅くなるのではないかと推測される。 北側の大きな木は、近所の中でも毎年のように早く開花し、見事に雄大な花を広げるため、この界隈では春の訪れを知らせる桜の木として知られている。 道路向かいにローソンがあるため、「ローソンの木」という通称があり、そう呼ぶだけでどこの桜の木を指すのか判るほどである。 いつも楽しみにしている人は多いに違いない。
先日、その遊歩道を通る散歩を妻と共にしていると、遠くからでも判るほどに桜が咲いているのが見えた。 それでもまだ本気は出しておらず、五分咲きといった具合であった。 八分咲きになると満開とされるため、まだもう少し時間がかかりそうだ、と思いながら写真を撮っていると妻が、「近くの公園の桜はまだかな?」と言い出した。 そちらには何本も桜があり、これまた綺麗な花を咲かせるという。
だが、そこから歩いて五分ほどの公園の桜は、まだつぼみの段階であった。 一本も咲いていない。こんなにも違うものかと思いながら、公園を一周し、二十分ほどしてローソンの桜のところへ戻ると、なんと、驚くことに満開になっていた。 妻と声を合わせ、「いま、600度になった!」と笑ってしまった。
こんなにも急に変わるものか、と思っていた二日後、先述した公園の前を散歩すると、なんと満開になっていた。 さっきまでかわいらしかった赤子が、いきなり毛深い親父になった感じだ。 成長が早すぎる。自然は実に脅威である。
そんな、桜に触れる日々を送っていたあるとき、BSで「桜を見るために設計された家」という番組が放送されていた。もともと様々な題材で色々な家を紹介するようで、たまたま目にしたのが桜を主題にした内容であった。
一年の中で、桜が開花するたった二週間のために設計された家。 それは、自宅にある木を見るためではなく、もともとある街路樹や公園の桜を見るために建築されているというものであった。 中には、土地を選ぶ際に道路に咲く桜を見て場所を決め、だったらその桜を楽しむためにはどうすればいいのか設計者に相談し、そのための間取りや部屋、建物の高さを考慮して建てられた家というものもあった。桜が主体となり、その家が作られているのだ。
それは、大きな窓を用意したり、桜並木が一番きれいに見える角度の高さにしたり、ゆったりと読書を楽しめる部屋からふと外を見たときに豊かな桜色が広がる設計にしたりと、訪れてみたくなるすてきな家々であった。 ここまで人を動かすなんて、桜には人を惹きつける魅力がどこまであるのだろうか。 寒い冬を越えた先に待つぬくもりあるやわらかな時間の訪れを知らせる春の風物詩が、やさしい女神のように敬愛されているのかもしれない。
かくいうわたしも、現在の部屋を決める際に、このアパートの魅力のひとつとして感じたことが、裏手の窓から手の届くところにある桜の木であった。 それは隣のアパートとの間に生えており、小さい木ではあったが、春の訪れを待ちわびさせるには充分の存在であった。 部屋にいたまま花見ができるねと、妻と一緒に笑ったものだった。
ところが、二回目の春を迎える前に衝撃の事態が起こった。 なんと、すべての枝が見事に切り落とされてしまったのである。 まるで無骨なポールハンガーだ。 ワシントンもびっくりである。 花咲か爺さんが全力で挑んでも、五分後には地面に手をついてがっくりと首を垂れる姿が目に浮かぶ。 ポチの魂も浮かばれない。
まさかこんな展開が待っているとは、開いた口が塞がらなかった。 爽やかな朝、カーテンを開けたときに残念に切られた木を見ても、なんの幸せも湧いてこない。 冬のような寂しい風が、木と、わたしのこころを吹き抜けるだけである。 こんなにも愛おしい桜を無残にも切り落とすなんて、外出自粛に発狂したジェーソンがチェーンソーでも振り回したのか。 結局、脅威なのは、自然よりも人間か。
いままでふつうに楽しんでいたものがなくなったときの悲しみはこういうものかと思ってしまった。 そのことを顧みると、喜びにしていることが当たり前のように感じることができる平穏な日々が、いかに幸せなことかと改めて気づかされる。
緊急事態宣言が出て、いままでの日常が当たり前ではなくなり、制限されているなかでの生活は、これまでの日々が、すべての些細なことが、いかに恵まれていたことだったかとあらためて発見させられた。 自由に旅をできることが、友人たちと気兼ねなく遊ぶことが、遠方の家族と会うことが、馴染みの居酒屋で常連のひとたちと酒を酌み交わしながら談笑することが、いかに幸福な時であるかを知ることができた。
また、このような中でも、医療現場も含め、人々が生活できるように戦っている人たちには、感謝の念しか浮かばない。 これもまた、いままではあまり思わなかったお礼の感情かもしれない。
日本人が好きな花見も今年は自粛を求められている。 みんな我慢しているのだろう。せいぜい散歩しながら、楽しんでいるだけに違いない。
それでもこんな陰鬱とした情報ばかりの毎日の中で、心地よい青空と合い重なって、のどかな風に揺れる淡い薄紅の色は、見る者の心を自然と癒してくれる。 日本人に生まれてよかったと改めて思う瞬間である。
早く、この冬のような耐える日々が終わり、世界に春が来ることを、桜を見ながらふと願った。
寒い冬が終わり、北海道にもようやく春がきた。 今日もきれいに、桜が静かに咲いている。