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まだ暑いこの季節にぴったりの話/『晩夏の夜の赤子の慟哭』
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平日の朝だというのに、広いバイキング会場は宿の浴衣を着る客で充分に賑わっていた。テーブル席に座り、久しぶりの温泉を満喫した妻がおいしいと喜びながら、小皿に盛った種類豊富な朝食を楽しんでいる。その様子を眺めながら、わたしは内緒にしていた話を口にするか否か、悩んでいた。
——アレハ、ナンダッタノカ。
やっぱり、チェックアウトまでは黙っていようか。いや、早く話して楽になってしまいたい。しかし、このあとまた部屋に戻るから余計な不安を与えるのは不本意だ。だが、この気持ちを共有しないと、わたしの心が落ち着かない。
苦悩するわたしの横で、宿の人が用意してくれたベビーベッドに寝転がる生後二ヶ月の息子が、機嫌良さげに手足を動かしていた。止まらない笑顔には、昨夜の怯えた表情は微塵もない。
わたしはやはり、宿を出るまでは秘密にしておこうと心に決めた。話したところで、何も解決するわけではないからだ。昨夜の出来事は、その場にいたわたしですらどうすることもできなかったのだから。
薄暗い部屋で、息子と二人きりだった、夜21時半ごろの話である。
授乳を終え、寝る様子に入った息子を見たわたしは、世話をみることを申し出、温泉を楽しんでくるよう妻に促していた。普段なら彼は、すとんと眠りに落ちてしまい、その後、お腹が空くまで起きることがなかなかない。
わたしの提案を喜んで受け入れた妻は、それではちょっと行ってくると言い残し、大浴場へと向かった。息子のために部屋を暗くし、襖を静かに閉じる。廊下からの明かりを失った部屋は、いっそうと暗くなったように感じた。音量を下げたテレビの画面が、場面に合わせて明滅を繰り返す。その光が暗闇を増している部屋の隅々をぼんやりと照らした。12.5畳の部屋が余計に大きく見える。
布団に寝かされた息子は、穏やかな寝息を続けていた。わたしは座椅子に腰を下ろし、スマートフォンを手持ち無沙汰にいじりながら、ビールを口にした。つまみのないビールがいつもより苦い。
まもなく、息子が小さくむずかり出した。様子を見ていると、やけに苦しそうな声を上げる。授乳の際に飲み込んだ空気をしっかりと吐き出せていないのだろうか。そう思ったわたしは、息子を縦に抱き、背中を優しく叩き続けた。
やがて息子が大きなげっぷをした。これで寝るだろうと思い、布団に戻す。しかし、落ち着くことはなく、手足をばたつかせ、さらに強くむずかり始めた。
「どうしたどうした?」
通じるわけはないのだが、思わず訊ねてしまう。立ち上がってあやしたほうがいいだろうかと、わたしは彼を抱き上げ、暗い部屋を歩き始めた。だが、彼の泣き声はさらに強みを増した。
珍しいことだった。大概はこれで問題ないのに、どうしたことだろう。抱いた右手で背中を優しく叩き、彼の顔を覗き込む。彼は怯えた顔で、どこか天井を見ていた。大粒の涙が流れ、口をへの字に曲げている。身体を固く、丸めている。
初めての温泉だった。宿の外泊は初めてなので自宅との違いに緊張があるのだろうか。それとも、もしかしたら——。
わたしは湧き上がる想像を押し戻し、息子をあやし続けた。彼は、天井の決まった数箇所だけを順番に凝視するようにし、まさに、怖がるように泣き続けた。眉間にしわをよせ、大きな目が形を崩して眼光を鋭くしている。わたしも見上げるが、そこには暗い天井があるだけだ。何も見えない。だが——、モシカシテ……。
肌が震えるほどの悪寒が走った。いや、赤ん坊はそもそも虚空に目を向け、何かを見つめているきらいがある。きっとそれの延長だ。何も見えているはずがない。
しかし、赤ん坊にまつわるその手の話は枚挙にいとまがない。季節は夏。誰かの話を聞いて肝を冷やす分には楽しいが、体験するのは勘弁したい。それにしても息子は、なにを凝視しているのか……。
「そ、そうか。いつもの自宅の天井と柄が違うから違和感があるんだねー。違いがわかるなんて賢いねー」と無理やり肯定的に捉えてみるが、なぜか肌のざわつきが収まらなかった。少し蒸している部屋なのに、妙な冷気を感じる気がする。
試しに、天井に視線を向けて、「おい、息子にいたずらするな、出て行け」と声に出してみた。しかし、状況は変わらず、息子は泣き続けた。
薄暗い部屋で長いあいだ、右往左往しながら格闘していたが、結局、妻が戻ってくるまで落ち着くことはなく、お腹が空いているのではないかと判断し、すぐに、授乳の時間となった。息子は涙を流しながら、妻の胸に抱きついていた。
帰りの車の中で一連の話をすると、妻は、「やめてー!」と言いながら怖がっていた。赤ん坊あるあるで、大人が勝手に想像力を膨らませて恐怖を感じているだけかもしれないが、それにしても、息子の怯えた形相は迫力があった。授乳をしてすぐに眠りに入ったのだから空腹だっただけなのだろうが、あんなにも恐怖におののいた目で天井を凝視するのは、俳優ならブルーリボン賞をいただけるであろう鬼気迫る表情であったと思う。
それをうまく伝え、妻を怖がらせたわたしは内心しめしめと思っていたのだが、三日後に立場が逆転する。というのも、こんなことを言い出したのである。
「温泉で泣いていたとき、彼の目は開いてた?」
リビングで授乳をしながら妻が訊いた。テレビのバラエティ番組から視線をずらさず、わたしは、「なんで?」と返した。確かに開いていたが、それがどうしたのだろうか。
すると妻は、母乳を飲んでいる胸元の息子に目を向けたまま、言った。
「彼、お腹をすかせて泣くときは、目を閉じて泣くんだよねー」
「えっ?」と思わず妻を見る。しかし彼女は、息子に視線を向けたまま、続けた。
「なにかを怖がっているとき、目を開いて、泣くよね」
ヤメテー!!
今年の夏は、いつもより涼しい夏になりそうである。
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