しかもである。 そのマラソンコースが、わたしの自宅界隈を三回も通過する設定になった。 興奮である。 もしかしたらIOCの会長が、2019年に、初挑戦のマラソンを完走したわたしに特別の配慮をしたのかもしれない。 至極光栄だ。 はたしてどこで観戦しようか、いまから胸の高鳴りが止まらない。
さらにいうと、偶然なのか、そのコースの一部はわたしがいつもランニングをしているところである。 一流選手が走る夢舞台を、わたしが普段から利用しているのかと思うと、切れる息もひとしおに楽しくなる。 もしかしたら、わたしが走っているから、オリンピックのコースとして選ばれたのかもしれない。 幸甚の至りである。
そんな、このコースの一部に熟知したわたしが、おそらくはルート上の肝になるであろう重要な部分を、いつもの経験から各国の代表選手に助言したいと思う。 これは、コースの前半部分が決定したときから、そこを走ることによる選手の体調不良の発生を心配している箇所であった。 走ったことがある者にしか判らない、魔物が実は控えているのだ。
選手を襲う想定外の障壁——それは、強烈な獣臭である。
場所は、宮の森・北24条通り上の、北23条西12丁目あたりになる。 ここを通ると、田舎出身には懐かしくも香ばしい臭気がどこからともなく漂ってくるのだ。 それは走っている際に思わず顔をゆがめてしまうほどのものである。 原因は、道路の南側に位置する、北海道大学構内にある馬術部厩舎ではないかと推測される。
これは風向きにより状況がかわり、馬術部厩舎の南側、新川通から北海道札幌工業高等学校北側の道路へ入り、北海道大学構内へ向かう途中でも、条件により、馥郁たる香りが人々を郷愁させ、鼻を曲げさせる。 不意に吸い込むと、強烈な臭気に咳きこむこと請け合いだ。
おそらく、このコースを検討、決定したひとたちは、机上、または車から視認しただけで、実際に呼吸を乱しながらそこを走ってはいないのだろう。 そうでなければ、この問題に気付くのは難しい。 とはいえ、200万人近い人口を有する都市の中心駅から三キロと離れていない地点で、まさか猛烈な獣臭がするとは、ふつうは想像し難い。 彼らに責任を押し付けるのは酷である。
いずれにせよ、そのような難所を走ることが決定してしまっている。 しかも、三度もだ。わたしがふだん走っているせいでそうなったとはいえ、途中棄権が続出するのではないかと不安が胸を打つ。 一流選手がどこまで下見をするのか判らないが、車窓から確認するだけでは、これを見落とす——というより嗅ぎ落とす可能性が大である。 本番でびっくりだ。 このままではまずい。 当日に多くの選手が困惑している姿が目に浮かぶ。 これは、何かしらの対応策が必要だ。 高地トレーニングよりも、牧場訓練のほうが効果的かもしれない。いまや、暑さ対策よりも、臭い対策が肝要である。 そういう意味では、酪農王国である十勝で事前合宿をすることが選手の強化にてきめんかもしれない——
というようなたわごとを、帯広のファミリーレストランで友人たちに熱く披露していると、ひとりが、「ということは、やはりアフリカ勢は強いかもしれない」と予測した。 あまりにも先入観が強い推測ではあるが、確かにその可能性は高い。
すると、豊頃町出身の友達が、「わたしも大丈夫かも」と言い出した。 わたしは思わず彼女を見た。
彼女は笑みを浮かべて、言った。
「その手の臭い、慣れてる」
思わぬ伏兵の登場である。一気に金メダル候補だ。 学生の頃はバレーボール部のマネージャーだったはずだが、番狂わせの予感がする。 能力は高い。
あとは、いまから練習を始めて本番に間に合う体力が準備できるか心配が残るが、出場することに意義があるのがオリンピックである。 出場できるかどうかは、挑戦さえすれば、少なからず機会はある。 甲子園の二十世紀枠のように、日ごろの行いで選出される可能性が万が一にもあり得るのだ。 いまから毎日、特に日本オリンピック委員会が拠点を構えるビル周辺のごみを、懸命に汗を流して拾っていれば、何かしらの手違いで選ばれるかもしれない。
いまこそ、十勝出身者の力を世界に知らしめる時が来たのだ。 一流選手が軒並み倒れていく中、うさぎとカメの童話のように、走るのが遅くとも、あきらめずに進み続けることで金メダルを首にかけることができるかもしれない。 臭いに強いという特殊能力でオリンピックにおける花形のマラソンを制するのだ!
――と思ったが、代表選考委員会の人たちもこの臭いを克服するという難関に気が付いていない可能性が高いため、それに強いという能力は選考外になるかもしれない。 残念である。
いずれにせよ、この先、晴天率の高い十勝での事前合宿には価値があると思う。 道の調査によると、選手の受け入れに対して十勝管内からは帯広市、士幌町、新得町、本別町がその意向を表明しているようだ。 日本人選手に限らず、ぜひとも十勝晴れの青空の下、気持ちのいい空気を胸いっぱい吸っていただき、雄大な景色のなかで走りと体調を整えて、本番の札幌にて快走してもらいたいものである。
世界を脅かしているこの事態が早く収束し、2021年の夏に熱い戦いが繰り広げられることを、切に願うばかりである。