住み慣れた実家を出て、一人暮らしを始めた18歳の時だった。そのころ直面した渇望のひとつは、わたしを大きくした母親の手料理であった。親元を離れた経験のあるひとなら、誰でも感じる郷愁ではないだろうか。
わたしは料理をすることに抵抗はなく、どちらかというと好きで、当時、「きょうの料理」を録画してまで自分の引き出しを増やしていたが、どうしても、母が作る味と比べ、何かが欠けているような、調味料が異なっているような、満足のいくものが作れなかった。求めるがままに自分の好物を食卓に並べているのに、いわゆる「家庭料理」を恋しく想う気持ちが、日を重ねるごとに強まっていった。大根の煮物、筍の土佐和え、手羽の照り焼き、魚の煮付け……、中には特別なコツなどないような気がする献立もあるのに、結局、似た味になるだけで完全に同様のものを作ることはできなかった。手順は沿っているのに何が違うのか。愛情という陳腐な回答を除けば、経験という調味料以外に思いつくものは何もなかった。
わたしが名言だと思っている言葉の一つに、母の、「レストランの味は飽きる。けれど、母の味は、毎回違うから、飽きない」というものがある。適当に作ることを全力で肯定している言葉だ。しかし、確かにそうかもしれない。ということは、多少調理法が違っても母と同じ味になる可能性はあるのにそうは問屋が卸さない。不思議でならなかった。
そんな風に過ごしていて一、二ヶ月が経ったある日、同じ町に住む叔母が、「みちくん、ご飯食べに来ないかい?」とわたしを夕餉に招待してくれた。一人暮らしでしっかり栄養を取れていないだろうと心配してくれたらしい。わたしはしっぽを振りまわしてちぎれるほど大喜びし、「いつでもすぐに行きますワン!」と乱舞した。
「食べたいものある?」
訊かれたわたしは間髪を入れずに、「家庭料理!」と答えた。砂漠でオアシス。一人暮らしの野郎に家庭料理である。
叔母の家へ向かうとき、自転車を漕ぎながら胸が弾んでいたのを今でも思い出す。楽しみの感情が体内を駆け巡っていた。久しぶりの家庭料理だ。母の味ではないものの、三人の子供を育てた叔母のおふくろの味は、わたしが出せない妙味にあふれているに違いない。興奮が止まらなかった。
叔母夫婦の笑顔に迎えられ、近況を話し、そして夕食の時間となった。わたしは想像していた。いったい何が出てくるのだろうか。サバの味噌煮か肉じゃがか、それとも唐揚げだろうか、いや、単純にカレーや卵焼きでもとても嬉しい——。
そんな昂りが抑えられないわたしの前に料理が並んだ。すると、なんと、トムヤムクンだった。タイ料理だ。しかも、「ちょうどお友達から皮をもらったんだよねー」と陽気に言いながら、叔母が大皿に乗った生春巻きを食卓に置いた。パクチーも入っている。虚を衝かれた思いだった。確かに家庭料理だが、まさかの東南アジアの家庭である。そうじゃない。
「おいしいかい?」
「おいしいです」
久しぶりに誰かと囲む食卓は色彩にあふれ、全身に栄養がみなぎる心地だった。しかし、「家庭料理」を食べたいという欲求が満たされなかった青年の感情は、20年以上たっても、強く印象に残る学生時代の思い出として今に至っている。
ユネスコの世界遺産は、過去から受け継がれ、未来へと伝えていかなければならない人類共通の遺産とされる目的の上に行われている。和食がそうなったのは、もしかしたら、わたしの話を聞いた誰かが未来を憂いて強く推薦したのかもしれない。日本の「おふくろの味」が、和食以外になってしまう日も、そう遠くないと危惧したのだろう。引き継がれてきた味が、ここにきて変わってしまっているのだ。
実際のところ、スマホをいじれば簡単に料理の仕方が調べられる時代である。これまでは、各家の味を子孫が継ぎ、その一族ならではの風味を出していたはずだ。しかし、いまでは料理法を紹介しているページの、人気が上位の誰かの味に、全ての家庭の味が寄ってしまっている可能性がある。我が家の味は失われ、親子丼はこの味、炊き込みご飯はあの味と、誰の家で食べても同じになってしまう日が来るのではないだろうか。
これはいけない。おふくろの味、我が一族の味を積極的に引き継がなくてはいけない——と、おかしな使命感にかられたわたしは、料理を作る際、ネットを駆使するのではなく、あえて、母に連絡をして調理法を教えてもらうという古風な方法で相伝することを心に決めた。
そして、その日が来た。
なんの料理だかすっかり忘れてしまったが、ある時、母の味を引き継ごうと思い、意気揚々と、「○○の作り方教えて」と連絡をした。するとすぐに、母から返信がきた。
『クックパッドによると——』
そうじゃない。
クックバッドが世界遺産になる日も、そう遠くはないかもしれない。