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ひととの出逢いに縁があるように、本との出逢いもまた、縁であるとわたしは思う。海外を旅していたとき、それを強く感じた。
バックパッカーと呼ばれる人たちが利用する安宿には、多くの場合、本棚がある。そして、多くの場合、自由に交換していいと張り紙がある。一冊の本を置き、一冊の本を手に入れる。
わたしが放浪をしていたとき、世界のあちらこちらで、日本語の書籍を見つけることができた。英語やスペイン語といった異国の言語が並ぶ中にそれを見つけると、いつも嬉しい気持ちにさせられた。その本は、誰かがその場所まで持ち込み、置いていったものなのだ。そして、たまたま泊まりに来たわたしと出逢い、手に取ることとなった。
どこから旅してきた本なのか、どんなひとがいつ置いていったのか、想像するだけで心が弾んだ。
わたしはいつも、持参してきた本を置き、そして、誰かが置いていった本を、次の旅への友にした。
タイを旅していたとき、日本から持ってきた本を読了したわたしは、アユタヤの宿に置いていくことにした。乃南アサの「行きつ戻りつ」という、旅を主題にした短編集だった。
ふと、表紙を開いたところの白紙に自分の名前を記してみようと思い、ペンを取った。「日本からこの本を持ち込んだ男、みち」とか、そんな簡単なことばだ。ついでにメールアドレスを書いてみようと思い、余白に記した。連絡をくれる可能性は低いだろうが、どんなひとがこの異国でこの本に巡り合うのか、知りたくなったのだ。
できるだけ丁寧に文字を書き、本を閉じた。そして、次に手にする人も大切にしてくれることを願いながら、海外の書籍ばかりが並ぶ小さな本棚にそっと置いた。
帰国して一ヶ月が経ったころ、一通のメールが届いた。題名は、「行きつ戻りつ」となっていた。本のことをすっかり忘れていたわたしは、いったい何のことだろうと怪訝に思いながら、メールを開いた。すると、
「いま、アユタヤにいます」
「小説読みました」
といった、短い文面が記されていた。
大興奮だった。つい、メールが来たメールが来た! と何度も叫んでしまった。
そのひとは女性で、一人旅をしているようだった。そして、「最後まで読めなくて残念ですが、またこの宿に置いていきます」と結んでいた。
あれから何年も経つが、後にも先にも連絡を頂いたのはそのひとだけだった。だが、ひとりでもあの本に出逢えたことを知れただけで、わたしは満足だった。
あのときの感動は、忘れられない。
そんな話を、オーストラリアで仲良くなった日本人の男の子にした。ちょうど彼から、一冊の小説をもらったところだった。
「いいっすね、それ!」
彼はおもしろがり、その本の余白に、「一人目 ◯◯」と記した。わたしもならい、読了したときに「二人目 みち」と書いて次のひとに渡した。
あの本はいま、どこにあるのだろうかとたまに思う。オーストラリア国内なのか、はたまた誰かが日本に持ち帰っているのか、それともエジプトのダハブあたりで逗留しているのか――。いずれにせよ、誰かが捨てない限り、あの本は旅を続けている。
もしかしたら、あなたが古本屋で開いた本の一ページ目に、わたしの名前があるかもしれない。そう想像するだけで、わたしは妙に楽しい気分を覚えてしまう。
先日、わたしの住む街の地下歩行空間で、古本市が行われていた。仕事に都合をつけ、目を引く本は無いかと、探しに行った。
わたしの場合、「目を引く本」というのはその言葉通りで、右から左に視線を流し、並ぶ背表紙を見ているうちに、不意に気になる一冊が目に止まるのだった。特に題名も作者名も読んでいるのではなく、見ているだけなのだが、なぜかその本だけが、目に飛び込んでくるのだ。
おそらく、好みの異性が目に止まるのと同じではないかと解釈している。行き交う人混みの中で素敵な人が目に入ってくるように、数多ある中から、そこだけが光って見える――というのは言い過ぎだが、「おっ」と思わせる何かを感じ取っているのではないかと思う。
その日も雑多に並んでいる中から、何冊かの本が目を引いた。そのうちの一冊が、芥川龍之介だった。
これに関して言えば、芥川龍之介のトロッコが読みたいと思っていたので、目に留まったのだと思う。読書家で知られるピースの又吉さんが、「本って面白いんだと気付かされた小説」と紹介していたので、気になっていたのだ。
だが、その本にトロッコは収録されていなかった。しかし、何気なくページをめくっていたわたしは、すぐにその本を買うことにした。意図の判らないメモ書きが、いくつものページに記されていたからだった。
いったい何だろうと不思議に思った。名詞や言葉を四角で囲んだり、文の一部に線を引いたりしてあった。一見すると、受験生の参考書のような具合だ。「然れども若しこれに止らんか、予は恐らく予が殺人の計画を実行するに、猶幾多の逡巡なきを得ざりしならん。」という一節に線を引き、そこから矢印を引いて、余白に、小さくも読み易い字で、「なぜためらうのか?」と鉛筆で書いてある。わたしは非常に興味を引いた。なぜだろう。国語の教科書のように使用していたのだろうか。大学の授業だろうか。
文字の雰囲気から、若い女性だと推察された。また、丁寧な線の引き方から、なんとなく几帳面な性格を思わせた。いったい誰が、いつ、何のためにこれを書いたのか、そして、どうしてこの本を売ったのか。わたしはとても気になった。日常にわいたミステリーだった。
無論、これが本当に推理小説で、印の付いた名前に、矢印で「犯人」とあったら、わたしはこの本を売ったひとを全力で見つけ出し、「逮捕する!」と叫ぶだろう。もちろん、そのひとが美人だったら、「結婚してください!」と即座に告白するだろう。そして、すぐさま、「なぜためらうのか!」と叫ぶだろう。
世界に本は満ちている。だが、一生のうちに出逢える――読める本は限られている。芥川龍之介は、自分が生涯で読める本の数を算出してがっかりしたらしい。わたしは本の面白さに気づくのが遅かった。だから、より少ないと思う。それゆえに、自分好みの良質の本ばかり、出逢いを求めていた。しかし、こういった本に出逢い、前の持ち主を想像し、同調することも、また一興ではないかと思い直した。それは、旅先で見つけた本たちの、本の一生を想像することに、少し似ていた。
あの日、アユタヤの安宿に置いてきた本はいまもそこにあるのか、それを確認するためだけでも、またタイに行ってもいいかもしれない。そんなことを、不思議に包まれた芥川龍之介の本を読みながら、ふと思った。
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